転載・使用をご希望の方はこちら


南宋 最後の夕焼け

2009,6


南宋は、宋が北方の異民族王朝である金に追われ、南に政権を移した王朝です。
やがて元が南下してきて滅亡しますが、南宋の最後は僅か八歳の幼い子供の死によって決したのでした。

その最後は悲劇として語り継がれています。



1276年、首都である臨安を攻略され、事実上南宋は滅亡します。
しかし降伏を潔しとしない抵抗派は、親王である趙昺とその義母にあたる楊淑妃(楊太后)を連れて
臨安を脱出し、更に南下して親王を衛王として封じ、皇帝として戴く亡命政権を打ち立てました。

このとき、親王趙昺は三歳になるかならないかの幼い子供に過ぎませんでした。


やがて迫り来る元軍の猛威に晒された南宋は、崖山を拠点として海上政権となり、元軍に抵抗し続けます。
しかし1279年、激しい消耗戦の中でとうとう南宋は力尽き、
これが最後と悟った南宋の忠臣たちは相次いで入水していきました。

最後まで皇帝の側につきしたがっていた忠臣の宰相、陸秀夫もまた
ここまでとこれに続き、幼帝趙昺を背負って共に入水。
楊太后も皇帝の死を知ると慟哭し、追うように入水して果てました。

幼帝はこのとき僅か八歳。亡国の運命はこの幼い少年の死によって決したといえます。


武将 張世傑はそれでもなお諦めず、更に南下して再起を図ろうとしますが、ついに船が覆り、
ここに南宋の完全なる滅亡が決定しました。





南宋最後の皇帝である趙昺は、或いはその在位中の元号から祥興帝とも呼ばれますが、
諡号がないため、他の皇帝とは呼称において一線を画しています。


さて、陸秀夫が入水を促した際、何の責任もない幼帝は、微笑してそれに応じたといわれます。

また、戦乱の中、彼は一羽の鳥を友として籠に入れて可愛がっていたが、主である趙昺が入水すると、
追うように籠ごと海に落ち、沈んでいったとも伝承されています。


後世の創作である可能性は大いにありますが、幼い子供が自らの責任ではない一国の存亡を背負い
死んでいった悲劇を悼むためのものだったのでしょう。





BACK      TOP