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後漢のファッションリーダー:孫寿
制作:2009〜2011年の間
後漢の外戚であり、「跋扈将軍」と言われるほどの専横を奮った梁冀の妻。
夫、梁冀の権力拡大に伴って孫寿一族も力を持った。
夫と張り合って贅を尽くした豪邸を立てたり、夫の愛人の友氏を鞭で打擲するなど
激しい気性の持ち主で、夫の梁冀も恐れる猛妻だった孫寿。
夫の浮気に対しては制裁を加えていたが、孫寿自身も秦宮という愛人を持っていたそうで
男女同権といわれている現代の女性もびっくりですね。
容貌は美しく、男性の心を捉える妖態(艶かしく見せる方法)を独自で編み出し、
都の女性たちはこぞって孫寿の化粧法などを手本にしたといわれます。
有名なものは下記のもの。
愁眉 (しゅうび) : 眉を八の字に描いて愁いを帯びたように見せる。
啼粧 (ていしょう) : 目の下の白粉をぬぐって赤くぼかし、泣きはらしたように見せる。
齲歯笑 (うししょう) : 歯が痛んでいるかのようにかみ締めて笑う。
堕馬髻 (だばけい) : 髪を束ねた髷(まげ)を少し傾けて乱れ髪を演出する。
折腰歩 (せつようほ) : 腰(というか恐らくお尻でしょう)を左右に振って歩く。
私が孫寿に興味を持ったきっかけは、昔 『始皇帝と彩色兵馬俑展』で見た、
前漢時代の「塑衣式彩色女俑<女官俑>」という俑。
この俑の髪型を「堕馬髻」と記載してあって、
「わざと落馬したような乱れ髪の演出するなんてニクいなぁ」
なんて思ってたんです。
その後しばらくして、孫寿の「妖態」の一つであるこの髪型を知ったとき、
ああ あの俑の髪型だったのか、と繋がったわけです。
下に写真を載せていますが、ここでの「堕馬髻」は長い髪を肩の後ろで束ねて折り返し、一部を更に
そこから垂らしているという髪型でした。つまり、髷を結っていないものだったんですね。
私は頭上に結った髷を崩した絵を描きましたが、正しくは垂髪のものだったようです。
「塑衣式彩色女俑<女官俑>」
前漢(前2世紀)
咸陽市陽陵陪葬墓園M130号墓出土
加彩灰陶
漢陽陵考古陳列館
出典 : 『始皇帝と彩色兵馬俑展』
購入した展示集には後姿が撮影されていなかったのが残念ですが、
束ねた髪から垂れた一筋が印象的でした。
ここで注目すべきは、この俑は前漢のものだということ。
俑として形が残っているくらいなので、この髪型は前漢当時、よほど流行していたのでしょう。
つまり「堕馬髻」は孫寿の創作というわけではなく、もともとあった結い方を
孫寿が取り上げ、或いは独自にアレンジを加えて再流行させた、ということが考えられます。
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【 H28.5.1 追記 】
一説に、前漢の武帝の時に始まったとされ、
また一説には後漢のこのときに始まったということです。
→ 「堕馬髻」についてメモを作りました。詳細はこちらをご参照下さい ←
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ブログにも書きましたが現代でも流行っている、いわゆる 『困り顔メイク』の
先駆けとも言える化粧法。これが1800年以上も前に男性をオトすメイクとして
流行っていたなんて面白いなぁと思っていたのですが、それ以上に「流行は繰り返す」という事実も
現代と同じだという点。私は非常に興味深く感じるのですが、いかがでしょう?
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