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王皇后(定安太后)

2011,9


前漢の外戚で新を建国者王莽の娘。
前漢13代平帝の皇后で、王莽の画策によって立后された。
立后の翌年に平帝が崩じると王莽は劉嬰を皇太子とし、
自身は摂皇帝となり王皇后は皇太后となった。

やがて父王莽が皇太子の孺子嬰より禅譲される形で新を建国すると定安太后と称された。
王氏は父の行状を恥じて新建国後は公の場に一切姿を現さなかったといわれる。
王莽は王氏を再婚させるべく号を黄皇室主を改め、病と称する彼女のもとに
成新公 孫建の息子を遣わしたが、王氏は激怒して病の床に伏した。

地皇4年(23年)、漢の皇族である劉玄が更始帝を名乗って新を攻め、
王莽を殺して未央宮を焼くと、嘆息し
「何の面目があって漢室の者にまみえようか(何面目以見漢家)」
と言って火中に身を投じて亡くなった。




漢代は比較的女性が強い時代ですが、彼女は父に翻弄される人生を生きた女性でした。
しかし、節操を知り、恥を知る女性だっただけに、火中に身を投じるというような
壮絶な死に様を選ばざるを得なかったのでしょう。まさに烈婦といえる女性です。

よく似た境遇の女性として北周の宣帝の皇后 楊麗華(隋文帝楊堅の娘)がいますが
彼女と比較しても、より強い自我を持った女性だったのではないでしょうか。

恥を知る彼女は、父の威を借りて奢侈に走ることもなく、
つましく目立たぬよう恥を忍んで生きていたのでしょう。
彼女は国に殉じた女性でも、夫に殉じた女性でもありませんが、
自分の心に殉じて死を選びました。
歴史ではさらりと流されてしまうような、ほんの15年ほどの短い王朝の狭間に生きた
悲しい命がここにあったのです。




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