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敬哀張皇后と張皇后

2009,5


舞台は三国時代。
「三国志演義」で多くの美女が登場するため、あまり知られていませんが、
蜀漢の二代目皇帝、後主(劉禅)の皇后として、張飛の二人の娘が嫁いでいます。
長女は「敬哀皇后」、妹は「張皇后」という諡(おくりな)で呼ばれていますが、
時期は同じではなく、長女が先に皇后として立てられ、その死後に妹が再び皇后位についています。


敬哀張皇后(けいあいちょうこうごう)

車騎将軍であった張飛の長女で、章武元年(221年)、劉備の即位に伴って太子劉禪の妃となり、
建興元年(223年)、劉禪の即位と共に皇后となった。
15年の後に死去し、南陵に葬られた。

張皇后(ちょうこうごう)

姉の死後、皇后として立てられた。263年の蜀滅亡後は劉禪に付き従って洛陽に随行した。




顔の美醜や容貌については全く記述がありませんが、一般的に言われる張飛の容貌から
イメージするに、眉が凛々しく目の大きな女性だったのではないでしょうか。
(張飛の要望も「三国志演義」の創作のようですが…)

姉妹で皇后に迎えられたことから美女とする説があるようですが、
姉妹で後宮に入るというのは昔からの慣例でしたので、
張飛ゆずりの凛々しさを持つ姉と妹、という以上に殊更美化することはないと思っています。


少ない記述の中で、ぼんやりとそのイメージを考えるとき、
後主劉禪の退廃を止めることができなかったであろうこの二人の皇后は、おそらく父とは違い
女性として皇后として皇帝の妻に徹した生涯だったのだろうと想像します。

張皇后について、『三国志』蜀書に亡くなる際の記述については特にありませんが、注釈にこんな記載があります。
“洛陽に連れて行かれた後、魏は諸将の中で妻帯していない者に、蜀の女性を下賜しようとしたところ、
劉禪の夫人の一人であった李昭儀は、その屈辱に耐えきれず、自殺した”と。

果たして魏が張皇后を同様に扱ったかについては分かりませんが、このたった一文の注釈によって、
李昭儀との対比がコントラストを色濃くしているように感じます。

張皇后はその状況に置かれたとして、果たして同様にしただろうか、と。

劉備の子。暗愚といわれる劉禪。
彼女たちが同様に暗愚ということではないけれど、たった一代前の父の世代の激しい血が、
長い戦乱の中で絶えてしまったのではないか。
そんな印象を持つ、皇后たちです。






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