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煬帝 宣華夫人に烝す

2016,7-9 以前の絵を元に再制作


南北朝の騒乱を鎮め、統一国家を作り上げた隋の建国者、文帝こと楊堅
名君と称えられる彼の死には、息子楊広(のちの煬帝)による
暗殺という暗い疑惑が囁かれます。

文帝の妻、独孤皇后皇后は一夫一婦制を重んじたため、文帝は皇后の生存中は
公然と貴妃を置くことはありませんでした。
しかし、嫉妬深い妻の死後、開放された文帝は宣華夫人と呼ばれる陳氏を寵愛します。
彼女は、隋が終わらせた南朝最後の国 陳の皇族でした。

文帝の息子で、当時既に太子として立てられていた楊広は、父の病床につめていた
宣華夫人をの美しさに魅せられ、関係を迫ります。
夫人は振り切って文帝のもとへ駆け込み、太子の無礼を訴えました。
中原を中心とする文化圏では通常、父の妻 つまり義母と通じることは
倫理的な禁忌とされていたのです。

隋では元々楊広の兄に当たる楊勇という人物が太子として立てられていたのですが
楊広の画策もあり、乱倫を厭う母独孤氏に疎まれ廃嫡されていました。
信じていた息子が義母に手を出そうとしたことを知った文帝は病床で激怒。
「畜生に大事は託せない。独孤は我を誤らせた」と言って、近侍のものに命じ
楊勇を召し出そうとします。
しかし結局、楊広を太子としたまま突然文帝は息を引き取ってしまうのです。

正史には文帝暗殺についての記載はありません。
一方、『太平御覧』で暗殺をほのめかす記述となっています。
文帝の立腹を知った楊広が、配下の者を遣わして父を殺害したのだとも言われています。
のち中国を代表する暴君とされる煬帝ゆえに、後に創作されたものであるとも考えられます。


さて、宣華夫人も文帝崩御を知り、太子の報復を恐れて戦々恐々としていました。
そこに太子の使いがやってきて、彼女に箱を渡します。
果たして毒かと思いきや、そこには太子から宣華夫人に当てた親書が入っていました。

そしてついに宣華夫人は、楊広ものとなったのです。

『隋書 后妃伝』の宣華夫人の段には、煬帝の寵愛を受けた
― 義理の息子と通じたという記述はこのようにされています。

【其夜,太子烝焉】と。




絵のタイトルは、「烝」

『資治通鑑』には【其夜,太子蒸焉】とあります。

はじめ「蒸」字を見たとき、その一字の持つ熱や湿り気を感じ、
漢字というものが持つ力に圧倒され、いてもたってもいられず絵を描きました。

ここでの「烝」については前後から「姦通する」という意味だろうと推測され
手元の角川の『漢和中辞典』によると、身分の高い女性に私通する。とあります。

ただ用例については長く疑問だったのですが、今回絵をリメイクするに当たって
調べなおしてみたところ意外にもあっさり答えが出ました。

『春秋左傳』桓公十六年
「衛宣公烝於夷姜」 注釈「烝,古代指與母輩通姦。杜預注,上淫曰蒸。」


上淫とは身分の低いものが、身分の高い女に通ずることで、まさに先述の通り。
それ以上に、ここにはっきりと「古代は母と通じることを“烝”と言った」
明記されています。

夷姜は宣公の庶母に当たるので宣公に比べて身分が高いということではないものの
「母と通じる、目上の者と通じる」ということからの“烝”字なのでしょう。
また、“烝”と“蒸”は通じるということも分かります。


“烝(蒸)”字がなぜこういった意味を持つかについて、更に興味が湧きますが
『漢和中辞典』での「烝」の字義は

     @むす。火気がむしあがる。むれる。むしあつい。(同)蒸。
     Aすすめる。献上する。
     Bきみ、君主。
     Cもろもろ。おおい(衆)。
     Dおこる(興)。のぼる。
     Eここに。
     Fまつる。まつり。冬の祭。
     G身分の高い女性に私通する。

とあり、どうしても@の「むしあがる、むれる…」の印象が強い気がします。
体から立ち上る蒸気といった熱や湿度が、肌で感じられる気がしませんか?

私通するという倫理に反した行動、そして相手が一般の女性ではなく身分の高い女性である、
あるいは母に当たる女性である、息子に当たる男性であるという、本来許され得ない状況が
背徳感を生み出したかもしれません。
それにより、なおのこと熱を帯びた表現として感じてしまうのは私の考えすぎでしょうか。




隋の高祖、文帝(楊堅)

隋の初代皇帝。諡は文帝、廟号は高祖。
北朝・北周の重鎮となり、静帝に禅譲をさせて隋をひらき、
南朝・陳を滅ぼして300年に亘る中国の乱れを統一した。
統一後は内政に力を注ぎ、従来の官僚登用制度であった九品中正を改めて
科挙制度を実施したり、仏教普及に多大なる貢献をしたという点で
中国を代表する名君の一人として称えられる。
一方、私生活では妻である独孤皇后に頭が上がらず、
皇后の生存中は側室を持つことができなかったという逸話も。

隋二代皇帝、煬帝(楊広)

隋の二代皇帝。一般に呼ばれる「煬帝」の謚号は
のちの唐王朝によるもので、「残虐非道な皇帝」という意味を持つ。
公には女性を遠ざけ倹約を尊び、母の歓心を買うよう腐心したという。
即位後は打って変わって豪奢な生活に溺れ、民衆を動員して
大運河の建設を行い、華北と江南の連結を行った。
版図拡大にも意欲的であったが、三度に亘る高句麗出兵によって
国力が疲弊し、国が乱れて唐が興るきっかけとなった。
最後は江南に逃げ、宇文化及らに殺害された。

宣華夫人 陳氏

南朝・陳の宣帝の娘で、最後の皇帝である後主(陳叔宝)の妹にあたる。
陳が隋に滅ぼされるに及んで隋の後宮に収められ、
独孤皇后の死後、文帝の寵愛を受けた。
文帝の死後、その息子である煬帝に寵愛される身となったが、
それから僅か一年ほどで亡くなった。
文人として名高い煬帝は詩を作ってその死を悼んだとされる。






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