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藤原薬子

2013,6





娘の夫である親王(平城天皇)を篭絡し、権力を握って「薬子の変」を引き起こした女性。



藤原四家のうち、式家の藤原種継の娘、藤原縄主の妻で。
桓武天皇の皇太子、安殿親王に自分の娘を嫁がせた際、
当時の慣例として娘に付き従って宮中に入り
娘の夫であるはずの年少の親王に見初められて東宮宣旨となったという
なかなかすごいお母様。

薬子は、親王の側近であった藤原葛野麻呂とも関係を持っていたと言われており、
父である桓武天皇はこの事態を憂い、一時薬子を東宮から追放して親王から遠ざけました。
しかし桓武天皇の崩御後、親王が平城天皇として践祚すると
薬子を呼び戻し、尚侍(ないしのかみ)の位を与えて寵愛したといいます。

薬子は兄の藤原仲成と共に権力を握り、故人である父、藤原種継に
太政大臣を追贈するなど権力を奮いました。
やがて平城天皇が健康を害し、弟である賀美能親王に皇位を譲って
上皇として古都平城京に戻ると、天皇を中心とした平安京と
上皇を中心とした平城京に朝廷が分裂します。
平城天皇側が復権を目論んで平城京への遷都を図ると、二都の対立は深刻化。
この上皇側の行動には薬子・仲成兄妹の思惑が絡んでいたのです。
遷都の督促に平安京に派遣した仲成を天皇側に捕縛されたことを知った上皇は、
形勢不利と見て薬子を伴い東国へ落ちて再起を図ろうと試みるものの
大和の国を出ないうちに上皇側が派遣した坂上田村麻呂によって行く手を阻まれます。
敗北を悟った上皇は剃髪して仏門に入ります。
上皇の力を頼みとしてきた薬子は、ここに至って毒を仰いで自害。
都を二分した乱は収まりました。


嵯峨天皇はこの後、死刑制度を廃止し保元の乱の起こる平安末まで長く死刑は行われなくなります。
また、このとき嵯峨天皇の側近であった、藤原北家の藤原冬嗣の台頭によって平安王朝以降の
藤原家隆盛期の礎が築かれました。
仏教と密接に結びついて腐敗を極め、皇位をめぐって骨肉相食むこれまでの皇室の伝統は
平安京から一新されましたが、実際はこの「薬子の変」によって、古き体制に終止符を打ち、
新たな藤原体制とも呼ぶべき平安王朝が始まったと言ってもいいでしょう。
年少の権力者を操ったとされる美女薬子は、皮肉にも変革を齎した功労者とも言えるのかもしれません。


また、薬子と仲成兄妹の政治への介入・混乱は、父種継の遺恨を晴らすためという見方もあるようです。
藤原種継は平城京からの遷都を希望する桓武天皇の命を受けて、長岡京へ遷都すべく造営責任者として
任にあたっている最中、大伴家持らによって暗殺されました。これに前後して長岡京では洪水の害が
多かったこともあり、種継の努力も空しく長岡は打ち捨てられ、平安京への慌しい遷都となりました。
この父の名誉を復活させ、平安京から朝廷を引き上げさせるという二人の意思が、この変を招いたとも
言われるのです。兄妹が権力を握って間もなく、父種継に太政大臣を追贈したことからも、父の名誉挽回を
願っていたことは確かなようです。




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