※ 史環的個人備忘録頁 ※
堕 馬 髻
2016,4
漢代の垂髪の一種。 頭の中心から髪を割り、首の後ろで一つに束ねて背部に垂らし、 更にそこから一束を引き出して片側より垂らす髪型。 【 変 遷 】 漢代より始まったと見られ、一説には前漢武帝の時に始まったとも、 一説には後漢桓帝の時代に大将軍梁冀の妻 孫寿が始めたとも言われる。 後漢桓帝の時代、大将軍梁冀の妻 孫寿が化粧法と共に始めたものを都の女性が みな真似て広まった。(注1) 後漢以降はこの結い方をする者は減り、魏晋の頃おおよそ廃れ、(注2) 堕馬髻から派生した新たな 倭堕髻が現れた。 南北朝時代においては少ないながらも詩文の中に詠まれるものの名存実亡状態となり(注3) 唐代になってから復興したが(注4)、名は同じでも実際は異なるものであった。 宋、明代になると、美しい髪 或いは垂髪の総称として詩詞に詠まれるようになった。(注5) 【 注 】 (1)出土物により、前漢の頃既に堕馬髻はあったことがわかる。孫寿はそれを更に 流行させたと見るべきか。 (※孫寿の化粧法については 孫寿イラスト をご参照下さい) (2)晋崔豹《古今注》巻下“堕馬髻今無復作者、惟倭堕髻、一云堕馬之余形也。” (3)徐陵《玉台新詠・序》“妝鳴蟬之薄鬢,照堕馬之垂鬟。”他 (4)李頎《緩歌行》“二八蛾眉梳堕馬,美酒清歌曲房下。” 白居易《代書一百韵寄微之》詩“金鈿耀水嬉,風流夸堕髻。” 注“貞観末,城中復為堕馬髻,啼眉粧也。” (5)張先《菊花新》“堕髻慵妆来日暮,家在画桥堤下住。”他 【 別 称 】 墜馬髻、梁家粧、堕馬粧 【 略 称 】 堕髻 【 出 土 物 】 ・湖北江陵凰山漢墓出土彩絵木俑 ・陝西西安任家坡西漢墓出土陶俑 ・咸陽市陽陵陪葬墓園出土加彩灰陶 など 【 出 典 】 ・『中国衣冠服飾大辞典』周汛、高春明編著(上海辞書出版社,1996年) ・『中国古代服飾研究』沈従文編著(世紀出版集団 上海書店出版社,2002年) ・『始皇帝と彩色兵馬俑展』
★ 個人的まとめ 備忘録 ★ 【 時 代 】 前漢・後漢(※ただし垂髪のもののみ) 「堕馬髻」で調べるとたくさんの画像が出てくるけれど、髪を結い上げているものが 比較的多い。しかし「垂髪の総称」とまで云われるということは、やはり その大半は髪を結い上げず垂らすスタイルだったと認識してよいのではないか。 魏晋の頃に既に髪を結い上げる倭堕髻が現れ、唐になって復興した (つまり南北朝では若干下火だった?)にも関わらず、あえて唐代でも 「堕馬髻」の名で呼ばれていたことを考えると、広義の「堕馬髻」は「倭堕髻」を含むのか 恐らく魏晋南北朝時代は両者に明確な区別がなかったと思われる。 「髻(もとどり)」は通常、頭頂部で纏めた束を指すが、こういった髪型を表す場合は 必ずしもその限りではなく、背中に垂らして束ねたものを「髻」といっている模様。 明代頃まで結われているような記述を散見するが、それは恐らく「倭堕髻」のことで アレンジのない(狭義の)「堕馬髻」そのものは前漢~後漢のみのもの。