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趙合徳
制作:2011~2012年
前漢十一代皇帝、成帝の妃で婕妤(しょうよ)から昭儀に進んだ。
姉である趙皇后(趙飛燕)の妹で、姉と共に皇帝の寵愛を欲しいままにしたと言われる。
もう一枚の趙飛燕
合徳に関する記述の殆どは後漢~唐代の頃に書かれたと思われる『飛燕外伝』にあり、
ここでは『中国古典小説選』(2007年、明治書院)の訳から紹介します。
(※同本は北京図書館所蔵明正徳嘉靖年顧元慶刻本影印本の『顧氏文房小説』を底本とされてます)
合徳は 姉・宜主(後の趙飛燕)の双子の妹で、趙王(姑蘇公主)が馮万金という男と
密通して身ごもって産まれたとされ、後に趙臨の養女となって主筋である陽阿公主に仕えるように
なりました。
やがて、姉・宜主が陽阿公主の弟である成帝に見初められたことがきっかけとなり、
合徳も妃として迎えられ、成帝に仕えるようになります。
合徳は後に「燕痩」と称されるほど細身だった姉とは対称的に豊満な体を誇る女性でした。
成帝は彼女を「温柔郷」と呼び、彼女の体に溺れていきます。
彼女は姉と共に帝の寵愛を集めますが、宮中に召される際もまた入った後も姉を立て続け、
気が強く我儘な姉とは対象的に控えめな態度で姉を懐柔し、巧妙な手練手管で帝を虜にして
昭儀という地位にまで上りました。
やがて成帝が病にかかって精力が衰えると、シン卹膠(シンジュツコウ)という精力剤を
使って帝と閨を共にしていました。しかしあるとき、一粒でよいところを酔った勢いで七粒も
服用させてしまい、そのため帝はそのまま崩御してしまったとされています。
合徳は取り調べに際して、
「私は帝を赤児のように扱い、世を傾けるほどの寵愛を受けた。
今更帝との房事について言い争うことなどするものか。」
と言い、胸を叩いて憤死したということです。
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